実は京都はどろどろだった!?
そんな側面から京都のいろんなどろどろを探るシリーズ第2弾です。
東寺は教王護国寺とも言いますが、空海没後は一時期、寂れたのだそうです。
その「危機」?を救ったのが後白河法皇の皇女、宣陽門院でした。
宣陽門院が「生身供」(毎日のお食事)と「御影供」(21日弘法さんの始まり)を始めたのだそうです。
御白河法皇といえば、鳥羽天皇と藤原璋子の息子ですが、兄は崇徳天皇、
藤原璋子の母は白河天皇(鳥羽天皇の父)の寵愛を受け、小さいころから一緒に住んでいました。
白河天皇の「娘」として鳥羽天皇の中宮になりますが、
生まれた崇徳を鳥羽天皇は「え。ほんとに俺の息子???」と思っていたようです。
白河法皇が亡くなると、璋子を排除し、美福門院との間にできた近衛天皇を即位させてしまいます。
しかし近衛天皇は若くして亡くなり、権力奪取!に明け暮れる重臣たち。
近衛天皇の次は後白河天皇になりますが、その皇女が宣陽門院で…。
そうして、権力闘争は保元・平治の乱へと突入!していくのですね~
京都の歴史はやっぱり どろどろ なんです。
(情報提供:滝川 さと枝)
投稿日:2015.05.20