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京都の怖い話その2-本当は怖い祇園祭

京都の町は7月に入り、暑さも本番。いよいよ鉾立もはじまり本格的に「祇園祭」一色といったところですね。
祇園祭は日本三大祭の一つ、たくさんの観光客も訪れて京都の町はとても賑わいます。
そんな祇園祭ですが、本当は怖い話があるのはご存知ですか?

今回は本当は怖い祇園祭のお話を紹介してみたいと思います。
 

祇園祭の起源

プロローグ

「誰・・か・・・いないの?」
いつもの見慣れた家、見慣れた景色。
しかしそこには誰も居なかった。誰も彼も、皆居なくなってしまった。
大好きだった父も母も居ない。近所に住む、意地悪だった従姉妹も叔父さんも居ない。
あんなにたくさんいた、叔父さんの家の人達も誰もいない。
 
私は助かった。そう、私だけが助かった。でも他には誰もいない・・・
 
 

蘇民将来の説話

八坂神社のお札や祇園祭の粽など、あちらこちらに「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」と書かれているのはご存知でしょうか?
これはには以下のような由来があります。
 
八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。
八坂神社公式サイトより)
 
素盞嗚命は天照大御神の弟です。
それはまぁすごい神様です。しかし暴れん坊ぶりで知られている神様でもあります。何だか「らしくない」穏やかさな気がしてしまいますね。
もう少し調べてみましょう。
 
蘇民将来の説話は色々なバリエーションがあり、全国の八坂神社や蘇民祭に伝わっています。
  • 武塔神(むとうしん)が嫁探しに行く(素盞嗚命や牛頭天王、あるいは「とある旅人」のパターンも)
  • ある所に、貧乏な兄の蘇民将来と裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)が住んでいる。
  • 武塔神が宿を借りようとするが、巨旦将来は断る。
  • 蘇民将来は喜んで宿を貸し、粟飯を炊いて精一杯もてなす。武塔神は一晩を過ごす。
  • 武塔神はお礼に、蘇民将来に厄除けの茅の輪を教える(この時に「蘇民将来の子孫」と名乗るように教えるパターンもある)(または数年後、武塔神が子供とともにお礼に訪れ、この時に茅の輪・蘇民将来の子孫を教えるパターンもある)
  • 疫病が流行し、巨旦将来の一族は皆死んでしまうが、蘇民将来たちは助かり子孫は繁栄する。
 
大体の内容はこのような感じです。
 
 

八坂神社の素盞嗚命の正体

蘇民将来の説話でまず気になるのが、主人公は武塔神なのか牛頭天王なのか素盞嗚命なのか。
 
そもそも、八坂神社は明治に入り神仏分離令で出来た名称で、元々は「祇園社」「祇園観慶寺感神院」という名前でした。
この時の祭神は牛頭天王、これは仏教系の神だったので、素盞嗚命に置き換えられました。
 
では、武塔神とは何者なのか。
武塔神は武塔天神や武塔天皇、また武答とも表記され、インドもしくは朝鮮系の神とされています。道教の托塔李天王やヒンズー教の影響もあるといわれています。
要するに怖い顔で非常に力を持っている神様。
これが、仏教で釈迦の生誕地、祇園精舎の守り神で、牛の頭を持ち体が大きく、姿形の恐ろしい牛頭天王と同一とされるようになり、また素盞嗚命の本地ともされました。
仏教や神道、ヒンズー教や道教、それぞれに「すごく力が強くて見た目が怖い神様仏様は全部一緒」とされたわけです。そしてそれぞれ、医学が未発達な時代に、人々を恐れさせた疫病をもたらす神様ともされました。「すごく力が強すぎてタタリがある。タタリのせいで人が病気になって死ぬ」という事ですね。
 
神道ではこれらの力が強くてタタリがある神様は「荒御魂」とされ、手厚く祀れば守護神となって守ってくれる、という信仰となりました。
これを「御霊会」と呼びます。祇園祭も明治時代までは「祇園御霊会」と呼ばれていたそうです。
 
 

御霊会の出来るまで

御霊会の起源は、平安時代の貞観5年(863年)、京都で疫病が流行したため、神泉苑で66本(当時の日本の国の数)の鉾を立て神輿3基を送り、牛頭天王を祀る「御霊会」を行ったと記録があります。
また、貞観18年(876年)、播磨国広峯神社から牛頭天王を勧請して御霊会を行い、八坂神社に祀ったという記録もあります。
この時、神体(牛頭天王の分霊)を乗せた神輿を置いて祀ったと言われているのが、壬生にある「梛神社」です。
時代・位置から考えて、祇園社に行く途中に天皇あるいは貴族が観覧したということでしょう。祇園まで花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら送ったと伝わっています。
(ちなみに、神戸の祇園神社や大阪の難波八阪神社も、神輿を一旦置いた場所ということです)
いずれにしても、祇園祭の原型はこの時期に出来たようです。
 
さて、播磨国広峯神社とはどのような神社なのでしょうか。
現在の姫路市にある広峰山にある広峯神社は、遣唐使であった吉備真備が都に戻る途中この山で神威を感じ、備後から勧請して創建されたとされています。
吉備真備が帰国したのが天平5年(733年)のことです。吉備真備は様々なものを持ち帰っていますが、その中に陰陽道の聖典もあり、吉備真備は陰陽道の祖とも呼ばれています。
陰陽道とは中国の占術や天文学・風水が元になっていますが、日本で仏教や密教・神道・道教などの影響を受けつつ、吉凶を占い、凶事を鎮める役目でした。
当時の凶事といえば疫病。ある日人がどんどん死んでいく疫病は、タタリとして恐れられていました・・・これで繋がってきましたね。
 
 

最も古い伝承〜備後国風土記

蘇民将来の説話の大元になった物語が、備後国風土記逸文として釈日本紀に残っています。
備後國風土記曰 疫隅國社 昔 北海坐志武塔神 南海神之女子乎與波比爾出 座爾日暮 彼所將來二人在伎 兄蘇民將來 甚貧窮 弟將來富饒 屋倉一百在 伎 爰武塔神 借宿處 惜而不借 兄蘇民將來借奉 即以粟柄爲座 以 粟飯等饗奉 爰畢出坐 後爾經年 率八柱子還來天詔久 我將來之爲報 答 汝子孫其家爾在哉止問給 蘇民將來答申久 己女子與斯婦侍止申 即詔久 以茅輪 令着於腰上 隨詔令着 即夜爾 蘇民之女子一人乎置天 皆悉 許呂志保呂保志天伎 即詔久 吾者 速須佐雄能神也 後世爾疫氣在者 汝蘇民 將來之子孫止云天 以茅輪着腰在人者 將免止詔伎
(釈日本紀七巻より)
 
備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。
 
古文なので読みづらいですが、蘇民将来の話の原型です。
 
知っている話と違うのは
  • 弟の巨旦将来も名前が蘇民将来になっている
  • 一晩泊めてもらって、年を経てから八人の子を連れてきて、茅の輪のことを教える
  • 兄の蘇民将来の娘一人だけを残して、皆殺しになる(蘇民将来も死んでいる!)
  • そもそも、弟(巨旦)も蘇民将来だと「蘇民将来の子孫」がおかしな事になってしまう。
 
これらの点です。なんと蘇民将来も死んでしまっていたのですね・・・素盞嗚命、恐るべし。
 
 

あらためて時系列でまとめてみると

7世紀ごろ(600年代後半)
備後国素盞嗚神社創建、備後国風土記が書かれる
天平5年(733年)
吉備真備が唐より帰国、陰陽道を創始、播磨国広峯神社創建
陰陽道の影響もあり、牛頭天王信仰が始まる?
貞観5年(863年)
京都で疫病が流行、御霊会が始まる。
おそらく疫病は終息せず。
貞観18年(876年)
止まない疫病を鎮めるため、吉備真備ゆかりの播磨国広峯神社から牛頭天王を祇園社に勧請
この頃から、御霊会として鉾を立て牛頭天王を祀る風習ができた
 
筆者の予想も含まれますが、このようになると思います。
元々、疫病を鎮める目的で荒御魂の素盞嗚命や牛頭天王を祀ってきたわけです。そして蘇民将来の子孫を名乗って疫病から逃れようとしてきた。
その時か後の時代かはわかりませんが、元の説話では娘一人しか生き延びられなかった話が、蘇民将来の一族は生き残るように変化していったわけです。
陰陽師の役目、凶事(=疫病)を鎮める方法として、吉備真備によって牛頭天王がフィーチャーされたようにも見えます。
 
 

ひょっとしてこんな話じゃない?説話の意味の仮説

時系列でまとめ直すと・・・
最初の、備後国風土記の救いのない話が浮いてきてしまいます。何故こんなにひどい話が生まれたのでしょうか。
 
備後国風土記をよく読むと、北海に住んでいた武塔神が南海の神の女子をよばい(嫁取り)に来る話です。
素盞嗚命は出雲(現在の島根県)、あるいは朝鮮半島に住んでいたとされています。
 
このようには読めないでしょうか。
北の海(出雲または朝鮮)に住んでいた素盞嗚命が南にある備後、あるいはもっと南の四国に嫁取りに来て、数年後に備後の国を征服した。
裕福な弟(=その国の王)の一族は皆殺しに、兄の一族も娘一人を残して皆殺しにした・・・
 
古来、征服した土地の元の一族は、将来の憂いを断つために皆殺しにするのはよくある事です。
また支配する方法として娘は残し、妻または奴隷にする・・・
日本神話には多くの怪物退治の話もありますが、多くは怪物ではなく戦争相手の国の事とされています。
 
 

まとめ

今年もコンチキチンのお囃子が鳴り響き、祇園祭が盛り上がっています。
多くの観光客が訪れ、京都の街は最大の盛り上がりをみせます。
 
そんな祇園祭もルーツを辿ると・・・
それが疫病だったのか征服だったのかはわかりません。しかしこんな残酷な話に・・・
 
とても暑い祇園祭、ちょっと涼しくなったでしょうか?
 
 
 

投稿日:2017.07.13