方丈北庭は、東西の2つのエリアに分けることができる池泉回遊式庭園。 東の庭は夢窓疎石が作庭したと言われ、心字池(しんじち)に蓬莱島、2つの亀島など3島がある。 西の庭は義政公好みの茶室・清漣亭(せいれんてい)と芙蓉池(ふようち)を持ち、衣笠山を借景にしている。
小堀遠州の作庭といわれる。白砂と七五三形式の刈込み、比叡山の借景により構成されている。石ではなく大刈込で七五三を表現した枯山水というのが禅院式庭園としては珍しいものである。また、俗に獅子の児渡しの庭とも言われる。獅子の児渡しとは中国の説話から来ており、トラは三匹の子を産むと一子は豹で、母虎がいないと豹が他の二子を食ってしまう。そのため他の二子を豹に食わせないよう川を渡る際に母虎が何往復もする姿になぞらえている。皐月が咲く時期の大刈込は一段と華やかさを増す。また、血天井も有名。
江戸初期の文化人・本阿弥光悦が1615年(元和1)徳川家康からこの地を与えられたのが起こり。境内には7つの茶室があり、中には入れないが露地を楽しむことが出来る。光悦垣(牛の寝た姿に似ているところから臥牛垣とも言われる)が有名。
【創建・由緒】 日蓮宗。元和2年(1616)本阿弥光悦の子・光嵯が発願し、本阿弥光悦の寄進した土地に日蓮宗中興の寂照院日乾(にちけん)上人を招じて開祖。寛永4年(1627)には、僧達の学問所として鷹峰壇林(学寮)を開設。往時は大小の堂宇が建ち並び、山城六壇林として栄えたが明治に廃止されている。 日乾上人に帰依した吉野太夫ゆかりの寺として知られ、太夫の墓や太夫が寄進した「吉野の赤門」と呼ばれる山門・吉野窓(茶室)・吉野桜も有名。
東福寺の塔頭の一つ。通称の雪舟寺。京都最古の蓬莱式枯山水庭と言われ、近畿地方唯一の雪舟作庭として知られている。 【鶴亀の庭】(南庭) 白砂と苔、植栽の簡素な庭で、苔地の中に鶴島と亀島を配した立体的な石組となっている。一見すると大きな立石の目立つ西(右手)の石組が鶴島のようだが、実際は逆で東(左手)の石組が折鶴を表わしているという。右手の亀島は、夜な夜な動き出す亀石に石を突き立て動かぬようにしたものという逸話がある。 【東庭】 鶴亀石組みの枯山水庭園。南庭を修復した際に、重森三玲が新たに作庭した。南庭は亀島を中心としているのに対し、東庭は鶴島を中心とし蓬莱の連山を表現していると言われている。
【九山八海の庭】 江戸時代中期に作庭され、その後荒廃していたものを現代の作庭家・重森三玲により復元・作庭された。須弥山を表す遺愛石を中心に据え、同心円状に白砂の砂紋を描き九山八海を表現している。 【臥雲の庭】 北に枯滝を組み、白砂で渓谷に流れる川と、山腹に湧く雲を表現しているとされる。 滝からの流れが石橋を潜り、南庭の九山八海へと流れていく。 右手奥の築山には枯滝が組まれている。小石が敷かれ、尖った鯉魚石がその急流を遡上している。また、茶室としては珍しい、二階建ての茶室「観月亭」もある。