【創建・由緒】 昭和十年、赤穂義士 大石内蔵助良雄の義挙を顕彰するため、大石内蔵助良雄公をご祭神として、大石隠棲の地に京都府知事を会長とする大石神社建設会、山科義士会、また当時浪曲界の重鎮であった吉田大和之丞 (奈良丸) を会長とするもの等の団体が組織され、全国の崇敬者により創建された。
【創建・由緒】 真言宗醍醐派。八臂弁才天(鎌倉時代後期作)を本尊とし、一般に「島の弁天さん」の名で知られている。 元禄12年(1699)伏見奉行建部内匠頭政宇(たてべたくみのかみまさいえ)が中書島を開拓するに当り、深草大亀谷即成就院(そくじょうじゅいん)の塔頭多聞院(たもんいん)を当地に移し、弁才天を祀ったのが当寺の起り。寺名は、建部氏の長寿を願ってこのように名付けられた。 弁才天は音楽をもって衆生を救う神で、福徳・智恵・財宝をもたらす七福神の一つとして多くの人々の信仰を集めている。当寺で毎年7月23日に行われる「弁天祭」は、かつては、淀川に御輿(みこし)や篝船(かがりぶね)がくり出す舟渡御が盛大に行われていたが、淀川の河流が変ったことなどにより、昭和26年を最後に途絶えている。 現在は弁天祭と2月節分祭には、醍醐派修験道の最高の神髄として柴燈(さいとう)大護摩修行が行われている。また正月には、現世利益を授かるため多くの参拝者で賑う。
【創建・由緒】 地主神社の創建年代は神代(かみよ:日本の建国以前)とされ、近年の研究により「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが確認されている。 嵯峨天皇・円融天皇・白河天皇と歴代天皇が行幸、皇室との関係が深まり、970年には臨時祭・地主祭りを仰せつかる。その後、中世になると、謡曲『田村』『熊野』をはじめ『梁塵秘抄』『閑吟集』など、有名文学にたびたび登場。「地主権現」の名が、ご利益ある神様として全国に知られるようになる。 古文書によると、戦国期から江戸期にかけては「恋占いの石」に興じる老若男女で境内が一日中にぎわったと、当時の反映の様子が記されている。また、地主神社祈り杉での「丑の刻参り」が大流行した。現在もなお、縁結びの神としてご神徳は全国的に有名。
【創建・由緒】 永暦元年(1160)後白河法皇が、熊野権を勧請して建立した若王子の鎮守社。社名は天照大神の別称「若一王子」に因む。 以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に花見の名所としても知られ、寛正6年(1465)3月には、足利義政により花見の宴が催された。その後、応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により社殿及び境内が整備され再興。現在の社殿は、昭和54年(1979)に一社相殿に改築されたもので、以前は本宮・新宮・那智・若宮の四棟からなっていた。 また境内には末社として恵比須神社及び三解社が祀られ、背後の若王子山頂には同志社英学校(同志社大学の前身)の創立者である新島襄の墓がある。 【御祭神】 国常立神(くにとこたちのみこと) 伊佐那岐神(いざなぎのみこと) 伊佐那美神(いざなぎのみこと) 天照皇大神(あまてらすおおみかみ) 恵比須像
【創建・由緒】 日蓮宗。元和2年(1616)本阿弥光悦の子・光嵯が発願し、本阿弥光悦の寄進した土地に日蓮宗中興の寂照院日乾(にちけん)上人を招じて開祖。寛永4年(1627)には、僧達の学問所として鷹峰壇林(学寮)を開設。往時は大小の堂宇が建ち並び、山城六壇林として栄えたが明治に廃止されている。 日乾上人に帰依した吉野太夫ゆかりの寺として知られ、太夫の墓や太夫が寄進した「吉野の赤門」と呼ばれる山門・吉野窓(茶室)・吉野桜も有名。
【創建・由緒】 真言宗御室派総本山。仁和2年(886年)第58代光孝天皇が「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願したことに始まる。 しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御したため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継ぎ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となった。 応仁の乱(1467年)で焼失。寛永期、覚深(かくしん)法親王(後陽成天皇第一皇子)が徳川家光の援助で再興。同時期の皇居建替えに伴い、旧皇居の紫宸殿・清涼殿・常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築された。 仁和寺御殿は、常御殿を移築したものであったが、明治期に焼失。現在の建物は明治期末〜大正初期に再建されたもの。 平成6年(1994年)に古都京都の文化財の1つとしてユネスコの「世界遺産」に登録。 【庭園の特徴】観賞式