【創建・由緒】 奈良時代末期の延暦元年(782)『続日本紀』に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」とあり、平城京の宮中に祀られていた。桓武天皇の父、光仁天皇の御所であった。この地には延暦十三年(794)平安遷都と同時に御遷座された。 当初、境内地は方八町余(平安尺で1.5km四方)で、現在の京都御所とほぼ同じであったが、時の変遷と共に現在の200m弱四方となった。 御本殿は国指定重要文化財。寛永二年(1625))南殿と、同九年(1632)北殿建立。東向きの「平野造」又は「比翼春日造」と呼ばれる二殿一体となった御本殿が二棟南北に建ち、北より今木皇大神より順に祀られている。東向きは宮中神であったことによる。 【御祭神】 今木皇大神(いまきのすめおおかみ):源気新生、活力生成の神 久度大神(くどおおがみ):竈の神、衣食住の生活安泰の神 古開大神(ふるあきおおかみ):邪気を振り開(晴)く平安の神 比賣大神(ひめのおおかみ):生産力の神
重森三玲による作庭。「八相成道(釈迦の生涯で起きた8つの重要な出来事)」を方丈の四方を庭で囲んで表現している。その東西南北の四つの庭園を総称し「八相の庭」という。 【南庭】 蓬莱神仙の世界、九山八海の須弥山を現している。東(左手)に巨石にて四神仙島(仙人が住む4つの島)の、「方丈」、「蓬莱」、「瀛州(えいしゅう)」、「壷梁(こりょう)」を、その周りの波紋は「八海」、西(右手)の築山は「五山(天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)」を表現。この庭だけで八相成道のうちの6つが表現されている。 【西庭】「井田の庭」 八相成道の「井田市松(せいでんいちまつ)」を表現。井田とは、井の字に等分した中国の土地制度に因んだもの。切り石を縁石にした葛石で井の字(大桝形)に組み、正方形に刈り込んだサツキ、白砂により市松模様が作られている。 【東庭】「北斗七星の庭」 八相成道の「北斗七星」を表現した庭。東司(とうす・トイレ)に使われていた柱石を利用して北斗七星を構成し、それを雲文様地割に配し小宇宙空間を表している。後方には天の川を表したという植栽が配置されている。 【北庭】「市松の庭」 苔地に敷石を市松模様に配置した庭。苔の青みと敷石のコントラストが美しい。西から東へ仏法が広がる様を表しているとされ、東へ移るほど市松紋が次第にぼかされている。
豊臣秀吉没後、正妻の北政所(ねね、出家して高台院)が菩提を弔うため、徳川家康の援助を得て1660年に開創した寺。 【北庭】 書院と開山堂との間に配置された臥龍池と、開山堂と霊屋との間に配置された偃月池、この2つの池を中心とした池泉回遊式庭園。「鶴亀の庭」とも呼ばれ、東山の山々を借景とし、豊臣秀吉遺愛の観月台から見て北側に亀島、南側の岬に鶴島の石組みが配置されている。 【波心庭】(南庭) 枯山水式。主に白砂と立砂により構成され、西に植えられた枝垂桜が知られている。 その他の見どころとしては伏見城から移築された安土・桃山時代の茶室・傘亭、時雨亭など。 傘亭の天井は、丸太と竹とで組まれ、唐傘を表したことから傘亭と呼ばれた。茶室は一般的に天井が低いものが多いが、傘亭の天井は高い。また、時雨亭は二階建ての造りで、茶室としては珍しい構造になっている。
【創建・由緒】 浄土宗総本山。宗祖法然上人が、承安5年(1175)東山大谷の吉水に設けた草庵に始まる。その後、二代源智上人により基礎が築かれ、文暦期、源智(勢観房)が復興(大谷寺)、その後火災や兵乱に遭い、徳川家康・秀忠・家光により現在の壮大な伽藍が形成された。三門・経蔵・勢至堂を除いては、寛永期の再建。 【見どころ】 法然上人の像を安置する御影堂(国宝)は1639年(寛永16)建立になる大建築で、大方丈、小方丈、勢至堂、経蔵、三門(国宝)、唐門、大鐘楼、集会堂、大庫裡、小庫裡と文化財指定建造物が並ぶ。 三門(国宝)はわが国最大木造の門で近年解体修理され偉観をとりもどした。大小方丈前の方丈庭園(回遊式庭園)は、僧玉淵坊作と伝えられる。国宝の紙本着色法然上人絵伝(48巻伝)、阿弥陀二十五菩薩来迎図など多数の文化財を所蔵。 【方丈庭園】 江戸初期、小堀遠州と縁のある僧、玉淵により作庭。池泉回遊式の庭園。 【二十五菩薩の庭】 皐月の低い刈込と石で構成。知恩院が所有している阿弥陀如来二十五菩薩来迎図に由来。石は阿弥陀如来と二十五菩薩を、植え込みは来迎雲を表していると言われている。
潮音庭:三尊石組・四方正面 建仁寺垣